もはや「リサイクル材」ではなく「エシカルメタル」、「エシカルプラスチック」と呼ぼう! —製造側の論理から消費者の選択へ!!—-
サーキュラーエコノミーに見られるように社会は循環型を指向する方向に向かっている。しかしながら、循環システムで生み出されたものはいまだに「リサイクル物」として製造段階においては一段低いものとして取り扱われる。もちろん、その物理的根拠もあり、不純物や欠陥をバージン材料で薄めて使う希釈型のリサイクルでは、バージン材以上の性能を発揮させることは不可能であり、またミックスプラのような混合製品は個別特性でその構成要素以上の特性を出すことは難しい。しかし、他方で貴金属やレアメタルのリサイクルのように製錬・精製のプロセスを含んだ抽出型のリサイクルもあり、これはリサイクルしたものも、バージンのものも同等の特性を持たせることは難しくない。プラスチックにおいても、強化性能の発現に係る高分子の空間構造の制御が行われればバージン特性に回帰させることも可能であるとの研究成果も出てきている。このように「リサイクル材はバージン材に劣る」と決めつける時代はもはや終わっている。
ではなぜ「リサイクル材」<「バージン材」の関係が神話のごとく使われるか、それには物理的理由と社会的理由がある。物理時理由は信頼性の問題である。すなわち、寿命、劣化などに関する科学的データの積上げがなく、信頼性を担保するベースデータがないという問題である。希釈型リサイクルと抽出型リサイクルを区別することなくリサイクルとだけ一括して考えたり、従来の劣悪なリサイクル材を使った劣化の経験のみが蓄積されているため、信頼性に関しては負のデータベースのみが存在しているといっていいいであろう。そのような状況であるから、信頼性データを構築していくという研究もあまり行われず、ますます負のデータベースが拡張していくことになる。
その背景には社会的理由がある。それはいまだに「リサイクル材はバージン材の代替である」という発想にとらわれていることである。この代替発想は歴史的には正しかった時代がある。それはモノがない時代、資源が高価な時代である。たとえば、東京タワーの特別展望台より上の部分は朝鮮戦争の戦車のスクラップを原料として作られている。それは、当時の我が国では鉄は貴重であり、戦車スクラップは相対的に安価に入手できたからである。この時代のリサイクル業は無から有を生み出しバージンに代替できる物質を提供するビジネスであった。それゆえに、「リサイクル材特性」<「バージン材特性」であり、それは「リサイクル材価格」<「バージン材価格」とリンクし、そして総合的に「リサイクル材」<「バージン材」の関係を定着させてきた。
しかるに現在、資源の持続可能な管理が問題となり、また環境容量の限界を超えた使用済み材の廃棄物の減量化が社会的課題となった時に、リサイクル材はバージン代替物としての目の前の生産・供給に対する要請からだけでなく、持続可能性という長期的視点からの要請に応えるという要素を強く持つようになってきている。すなわち、物質循環は、生産・供給に関する代替性の観点だけではなく、持続可能性への消費者の選択としてとらえるべき段階にきている。その顕著な例がプラスチックであり、一部にはプラスチック製品の排斥を誇らしげに語られるほど消費者の選択が市場に関与する割合も大きくなってきている。すなわち循環利用された素材を使用することは、消費者がそれを選択したというアイデンティティーを購入することでもあり、そこにあらたな付加価値を生み出すこともできるようになってきている。
このような状況のなか、未だに過去の遺物である代替材としてのイメージの強い「リサイクル材」という表現を使うのは、過去の構図をそのまま引きずった形になる。むしろ消費者の持続可能性を意識した選択を具現化した素材として、「エシカル材料」すなわち「エシカルメタル」「エシカルプラスチック」と呼ぶべきではないだろうか。なお、エシカルは本来「倫理的」という意味であるが、現在は、環境配慮など良識的なというニアンスで用いられ、エシカル消費などとして使用されており、まさに使う側の選択の意思を具現化するという点で適切な表現であろう。
フランスの経済学者ジャン・ボードリアールは「商品の記号化」という論述の中で「人々はモノ自体をその使用価値において使用しない。人々は自己を他者と区別する記号としてモノを消費する。」と指摘をしている。これはモノからコトへという流れのその先の方向として記号化ということを示唆していると思われる。エシカル素材、エシカルメタル、エシカルプラスチックはまさにサーキュラー・エコノミーが打ち出し、市民と共有すべき呼称であるといえる。
文責 原田幸明 2020.03.15
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