『循環経済の夜明け』 細田衛士先生からのコラム
欧州から発せられた「循環経済(Circular Economy)」と日本で従来からあった「循環型社会」とではどこがどう異なるのか常々考えていた。2つの関連ドキュメントを読んでみてもあまりその違いが判然としない。確かに前者は経済成長の促進とか雇用の増加が強調されているのに対して後者ではそれにあまり触れられていない。他方、後者が地域循環を強調するのに対して前者はそれにあまり触れていない。こう考えると確かに違いもある。だが、資源の高度な循環利用によって天然資源の投入を節約する一方、自然系への残余物の排出を抑制する、この基本概念は両者に共通している。
色々と考えた挙句思い至ったのは次のような単純なことだ。循環経済とは、単なるリデュース・リユース・リサイクルを実現する経済のことではなく、それを超え出て、新しい付加価値の創出に裏打ちされた新しい経済を作り出す、ということなのである。つまり従来とは違った新しい経済づくり、それが循環経済構築ということなのである。こう言うと、それでは経済成長を促進し雇用を増やすという欧州型の循環経済の発想と同じではないか、と見る向きもあるかもしれない。
それは違う。そもそも経済成長という発想自体が一時代前の発想でもう古い。GDPとはモノやサービスの市場化された価値のことで、この増加が経済成長というわけだ。これが人間の真の幸せを表すものとは思えない。特に先進国ではそうだ。それに対して、「新しい付加価値」とは、市場化された付加価値と市場化されない付加価値両者を合わせたものであり、従来の市場化一辺倒の付加価値概念とは異なる。
実は実体経済はもう新しい付加価値を追い求める方向に移りつつある。ライフスタイルは著しく変化し、人々は従来型のモノに溢れかえった生活から幸せを得ていない。内閣府の調査を見ても明らかだ。60%以上の日本人がモノの豊かさよりも心の豊かさを求めている。若者のモノ離れは明らかな傾向で、授業中に学生に欲しいものは何かと聞いてみても「別にありません」という答えがほとんどなのだ。
人々は今や精神的に充実して生きることに幸せを感じている。そして人と人とが繋がることに幸せを感じている。フォイエルバッハやマルクスに頼るまでもなく、人間は「類的存在」なのであって、共に生きるからこそ幸せを感じるのである。モノが溢れかえることから幸せを感じるわけではない。もちろんモノは重要だが、問題はモノからどれくらい幸せを引き出せるか、と言うことなのだ。ある時はシェアすることから、ある時は協働することからより多くの幸せを引き出すことができる。そしてそれは往々にして市場化された付加価値として現れることはない。
ところが残念なことに生産スタイルがそれに追いついていない。相変わらずモノや従来型のサービスが人々の幸せをもたらすと勘違いしている。パラドキシカルなことなのだが、このような生産スタイルの変化の遅れが経済の発展を遅らせているとも言える。新しいビジネスチャンスは、市場化される付加価値と共に市場化されない付加価値を新たに作り出し、人々の幸せを増す努力から生まれるのだ。それはラインやスカイプ、フェースブックなどをみても明らかだ。
循環経済はこれを実現する発想で、市場化されようが市場化されまいが、人々の幸せを最大にするような価値を人間に与えてくれる、そんな経済なのだ。だからマテリアル(素材)は機能やサービスを運ぶプラットフォームのようなもので良い。マテリアルは経済の中で限りなく循環する。マテリアルの上に人々を幸せにする価値(市場化されようがされまいが)が充填され、人々に配分される。経済成長しようがしまいが、人々の幸せが増えてゆく。
もちろんこれを実現する基盤はビジネスにある。だからこそ、ビジネススタイルが変われなければならない。かつて近江商人は言った。「売り手により、買い手によし、世間によし」。この現代バージョンが循環経済なのである。
中部大学経営情報学部
細田衛士
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