「「平和」って何だ!Ⅱ」 加納誠氏 2022 8/24

コラム紹介

加納誠氏(東京理科大学留学生支援会会長)
 
 

 
では、先週の談論郵送の「平和って何だろう?」というのを受けた形で、Ⅱというのを、
非常にいろんな印象的なこともあったので、思いつくままに、
ちょっと皆さんのご議論をいただければと思っております。
 

 
まず、先週はですね、
この〈全共闘運動〉という、もう過去の歴史に入ってる方も多いと思うんですが、
私なんかはもうすぐに「平和」っていうと、
彼らの「反戦平和」というものが思い出されて、
もうそのときから違和感があって、
彼らの
”まず「破壊」から始まる「否定」して”、
”全部「既存の権威」を「否定」してから「スタート」する”、
”それも「平和」”、って、

”それはないんじゃない!?”、っていう、
ずっと大学人となってからもですね、助手として勤めて、彼らと対峙する立場になったわけですけども、ずっとそういう思いでやってました。
彼らがその、始めからあるパターンを持ってれば、
こういうふうに持っていくんだ、という形で、
暴力じゃなくてですね、それがあれば話が聞けたんですけれど、
非常に優秀な学生たちが多かったんで非常に残念に思ってます。
そういうこともありまして、また実際、今、まさに旧統一教会ですね、というこれが巧妙なカモフラージュというか、鉄面皮というか、それから信者には刷り込みというか、
それで平和ということで、例えばですね、
機関紙「ワシントンタイムス」ってのも、彼ら、なんかもう、そういうネーミングっていうのは、”天才じゃないかな”、と、
「ワシントンポスト」と「ニューヨークタイムス」、これ、一緒にして、なんか聞こえのいい、機関誌をやってるわけですね。
誤解する人は誤解してしまって、
最近の、最近っていうか、今の組織名は、「世界統一平和家庭連合」って
なんか、もう、全部寄せ集めて、取り繕って、何も知らない人は、何かいいような印象を受けるんですけれども、もうこれからして、なんとも巧妙なネーミングという形ですね。
そういう背景もあります。
 

 
それからまた欧米で日本みたいにですね、
平和を唱えていれば、それが
日本だとですね、『錦の御旗』という形で、”御朱印状のように”、
日本では、割と、そういうような形なんですが、なんでも”平和”というと。
一般的にはそうじゃない、と。
もう一つ、今、流行りの「SDGs」
国連が提唱し、世界を席巻している「SDGs」、平和前提ですよね。
16条の”平和と公正を全ての人に”、と。
まあ、そういう形で平和、日本、及び、世界。
かいつまんで言えば、そういう背景があるわけですが、
逆にですね、こんな意見もあるわけですね。巷には、
”ウクライナが早く降伏してくれたらは、平和が戻る、”ということですね。
さらに侵略して占領を続け、力づくでも一応の治安を保てばそこは「平和」なんだ。
まあ、そういう論理ですね。
こういうことを考えてったら、
”「国家」とはつまるところ、暴力装置”、というか、
これも、どなたかおっしゃってたと思うんですけども、確かに、「国家」というふうになったらですね、「覇権主義国家」は当然のことなんですが、
「民主国家」もでですね、この後で言いますけども、”暴力装置になってしまう”と。
 

 
これは先週のことであの、鈴木謙二郎さんに「平和学」ということで、
”暴力がないことが平和”、と、
これはもう、非常に明確であると思いますね。
そういう意味で言うと、今までその前のスライドの中で述べてきたことが、より矛盾してることが浮き上がった。
ただし一般に「平和」とか、何か述べるときは、
「自由」だの「民主」だの、という語句が入って、逆にちょっと主題がぼやけてしまう、ということがあります。
先ほど言いました、プーチンの、これは彼の信念かもしれませんが、
”ドネツクのほうの、親露派住民による平和国家樹立”。
ここでの、言ってる”平和国家樹立”、これは「完全に詭弁である」というような意味で、
これもですね、ロシアの国民たちは正しいことが、よほど若い人はSNSで、情報を入手できるかもしれませんが、一般的にはですね、80年前の日本と同じような状況になってるんじゃないかと。
80年前の日本と同じような状況になってるんじゃないか?、と。
ということで、簡単にはロシアは変わらない。
そういうことで、現在のウクライナの状況があるんじゃないかと思うんですね。
ただ、客観的に言えば、「ウクライナへの侵攻」そのものが「反平和」であるのも、疑いのない事実です。
そういうことで、先ほどちょっと触れました、
”ウクライナが早く降伏してくれれば、平和が戻る”、っていうのは、本末転倒の議論である。
だったら、だったらですね、今実際、ウクライナが反抗しておりますが、
日本の自衛隊もそうなんですが、”自衛のための戦争はありなのか?”、という、
この辺の議論、
これが現状において、非常に微妙な、微妙というか、重要な論点ですよね。
「平和」ということを全面的に出して議論していくときに、
これ(自衛のための戦争)はありか?と。
そういうような、非常に「平和」ということから、
私自身としてでもですね、
単に、平和って言ってりゃ、御朱印状のように何でもまかり通る、議論がまかり通る、と
いうことではないなあ、と。
 

 
”そもそも、人類の性(さが)として、平和はありえない”、っていうお言葉もありましたよね。
そうか、そうだったら悲しいな、と。”悲しい”で済むんだったらいいです。
実際には、今、侵略が起こってる
それからその侵略の前、国連でも言われてた
「核抑止力による平和」ですね。
日本なんかこの辺に立ってたんでしょうけど。
そういう議論もですね、まあ、おぞましい議論(理論?)です。
「核の力に頼っている」と。
まあ、そういうことで、非常に、何て言うんですか、ずっと議論を並べてきた。
その中でですね、やっぱり、
”プーチンやヒトラーのような、独裁者を生み出してはならない”。
これはやっぱり、
後の歴史を経てもですね、
価値はなくならない、当然のことじゃないかと思います。
ただ、これは、以前、談論風爽でも私も言いましたけど、
あとは後藤さん(後藤敏彦氏 サステナビリティ日本フォーラム 代表理事)からもご指摘ありましたけど、
”「民主主義国家」から産み出された”、わけですよね。ヒトラーも、プーチンも。
一応、体裁としては「民主主義国家」から、どんどん、どんどん、最終的には、「独裁者」、「覇権主義国家」になってしまったわけですけれど。
ということは、
「民主主義」というものの持つ”危うさ”、”欠陥”
これが露呈されてると思う。
ヒトラーの後、70何年も、80年も、経った今でも、この欠陥、これはもう、
紛れもない事実としてある、と。
一旦、「覇権主義国家」はもちろんのこと、
独裁者を「民主主義国家」でもね、生み出してしまったら、
当然もう”世界の世論は届かない”わけですね。
最近はSNSで少し漏れ漏れたりしますが、
一般的には「報道、言論の自由」、これはもうないわけですね。
ただし、この無いんですが、これは、やはり、
”人類の性として平和はあり得ない”、というアンチテーゼで、
これの「自由民主の旗」は、色あせない。
これをやはり、我々、および我々後の世代へですね、引き継いで、
独裁者を生み出さないような方策、
そんな簡単に解はないと思うんですが、
例えばですよ、こんな ”ユートピアみたいな” 話かもしれませんが、
「世界賢人会議」というのは、あったわけですね。
あったというか、ある、と。
これに実際に権限を持たせる。
持たせる、と言ってもどうやって持たせるんだ?、と。
国連軍だってほとんど非力ですからね。
だから具体的にどうしたらいいか。
まあ、これはあれですけど、
権利をもし持ったらですね、
それは一般に、これは世界の国民ですよ、日本だけじゃなくて、世界の国民、
世界の為政者へのリテラシーというものを、しっかりと確立をさせていけばですね、
一つの、道というのがあるかもしれない、という、
まあ、非常に私の観点ってのは、非常に”オプティミスト”なので、こんな想いを
この間の平和の議論から、ちょっと持たせていただきました。
 
あとパワーポイントはいろいろあるんですが、これはもう、今日の議論からはちょっと外して、
”こんなことをやってきましたよ”、っていうようなことを後に書いてあるんですが、
ここのところで、一応、皆様のご意見とか、いろいろ、お叱りとか、受けたいと思います。よろしくお願いいたします。

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