「安藤昌益の互生共環とRenewable Economy」 加納誠氏 2021 8/6

加納誠氏 〈東京理科大学留学生援護会会長・理学部非常勤講師〉

(今日の資料が送れなかったんですが、申し訳ないのですが、皆さんに。ちょっとさっきのさっきまで完成して送ろうとしていたものを、こんな時にどうしてかと思うのですが消しちゃったんですね。もうほんとに・・
いやー、今まででアメリカで一回、日本で1回目ですまあ、2回目ですけれど・・
それで、お詫びしなきゃいけないんですけれども、あとであのもう一度、復元ソフトも今、動かしていたんですけれども、ダメで、お詫び申し上げます。)
今日のテーマ、ちょっとだいそれたテーマを掲げてしまったんですけど、むしろ皆様からの、ご教授いただきながら、”勉強したい”という想いで、ここでご披露しようかと思ってた次第です。
で、タイトルにありますように、<Renewable Economy>ということで、これはむしろ、原田さんがいらっしゃるんで、ちょっと場違い、というか、間違いがあればご指摘いただきたいな、と思いながらも、安藤昌益との関連がですね、非常に大きくて。皆様には釈迦に説法かもしれませんけれども、私自身はこの安藤昌益については恥ずかしながら、自分の大学の、同じ学科の先輩にですね、安藤昌益の大家がいらっしゃった、ということも、最近になって気がついて、勉強を始めた次第です。
そして、勉強をしている間に、これは今やっていることと、これだけ関連があって、<日本の和の文化>というか、原田さんもおっしゃっていましたけれども、これに対して、今、改めて見直されている「資本論」ですね、『人新生の資本論』ということで話題になっていますけれども、その資本論が出るより100年以上も前にですね、日本において、安藤昌益という偉大な思想家、学者、その方が実践に基づいて、これだけのことを成し遂げたということで、皆様にご紹介がてら、勉強させていただこうと思った次第です。

ご存知の方には、ちょっと申し訳ないんですけれども、一応、私が「安藤昌益という、日本が生んだ世界に誇る思想家」という風にと思うに至ったことを、概観させていただきます。
(本文引用)「昌益は、彼の生きた社会を<法世>とみなし、法世以前に<自然の世>があったと考え、法世を自然の世に高める具体的方策を提唱した。」
ということで、実践をされております。そして、
(本文引用)「身分・階級差別を否定して。全ての者が労働(鍬で直に地面を耕し、築いた田畑で額に汗して働くという「直耕」(→「ちょっこう」という言葉で読んでおります)に携わるべきであるという、徹底した平等思想を唱えており、著書『自然直営道』に、その考えが、理想社会として書かれている。」
「彼の思想体系は、封建社会の混乱と矛盾を目撃し、深い時代的関心に裏付けられている。」
これは秋田県、特に、当時の東北はですね、飢饉が頻発していたわけです。
それに対する、惨状を目の当たりにして、そこで更に、「代官」や「大名」。
いわゆる、私もよく為政者、為政者と言って彼らの責任の重さを背景にして、それを批判しているわけですが、安藤昌益も
(本文引用)「為政者を不耕貪食の輩と断罪もしている。」
ということで、”働きもしないで、食っちゃ寝を繰り返している”と。
そういうことで非常にストレートに、当時の封建社会の中でこれだけのことを言える、言っていた、ということで、海外でも高く評価されております。

ということで、
(本文引用)「その当時の奥羽地方では、寛延2年、宝暦5年、宝暦7年と、飢饉が頻発した。また、関東より一帯にかけて」
いわゆる”間引き”ですね。子供が多かったら、女の子なんかは特に間引かれたんじゃないですかね。よく働ける者だけを残して。幼児を殺してしまうというような、悲しいことが一般的に行われていたわけですね。

(本文引用)「昌益はこのような現実を凝視し、考えた。中平土の人倫は、十穀盛りに耕し出し、山里の人倫は、薪材を取りて之を平土に出し、海浜の人倫は、諸魚を取りて之を平土に出し」
いわゆる「循環型社会」の先駆けをですね、訴えているわけですね。
それで、私もよく言っていた〈里山〉ですとか、〈里海〉ですね。海にもちゃんと思いを致してですね、それで”平等社会の実現”について、まあ、牢屋にぶち込まれることも覚悟で、ですね、当時の為政者に対しての”痛烈な批判”ですね、それを展開していくわけです。
古文体でちょっと、ずーっと長く引用しているんですが、言ってみれば、今、言ったようなことを、強く訴えて、最後に「是れ、自然の世の有様なり」ということで言っているわけです。

これはあの、もう、文献もいっぱい出ております。
こういうことで、彼の「自然真営道」など、いろんな著作はありますけれども、『自然真営道』の内容は「共産主義」や「農本主義」、「エコロジー」に通じると考えられていますけれども、〈アナキズム〉にも、少し関連もあるかな、という論評もあります。いわゆる、非常に間口が広い考えであります。
この中で昌益は
(本文引用)「江戸幕府が封建体制を維持し、民衆を搾取するために儒教を利用してきた、と主張して、孔子と儒教。特に朱子学を徹底的に批判した。」と。
江戸時代で、この辺の「一部」に対しての批判ということで、えーとあれは、ちょっとド忘れしましたが、やはり朱子学者、儒教学者達の、大塩平八郎だったかな?そういうような一部に批判も出てたんですが、このように徹底的に広い観点から、安藤昌益は、もう当時、自分の考えを、展開していたわけですね。

同じ学者の林基は、
(本文引用)「イデオロギーの上でも、宝暦年間は重大な画期をなす。最大の指標は、安藤昌益の『自然直営道』の成立である。その基礎である幕藩封建制的大土地所有を根本から否定し、現在(現存)の一切の支配的イデオロギーを徹底的に批判した『自然直営道』の成立こそは、全く画期的な変化の指標としなければならない。それは享保ー宝暦年間における、階級闘争の質的変化(転化)の過程が生み出したものと見ることができる、と論じている。」
ということで、まあちょっと民衆運動にも触れて、ここの解説をしていますけれども基本的にはその、彼の考え方「循環型社会」、それからいわゆる、まあ、一般の日本人”一般の人々”ですね、それの人達を平等に扱って、この、ただ、いわゆる我々のようなアカデミズムの人間はよく批判されているんですけれども。「机上の空論ばかり」とか言ってね。それをですね、実際、自分としては、少し反省も含めて、「現場主義」を貫いてきたつもりなんですけれども。私のことはともかくとして
そういう意味で、マルクスよりも100年以上前にですね、このような、いま、また、<リニューアルエコノミー>と、原田さんが、たしか、6月30日の談論風爽かな?特にそこで説明されておりましたけれども、これと通底するところがある。その考えを、江戸時代に安藤昌益が、かなり展開していた、ということを、私自身が不勉強も含めてですね、ちょっと告白して、「六十の手習い」でなくて「七十の手習い」と言いますか、そういう形で、ちょっと勉強も始めて、皆さまのご批判に耐えたいと。

ちなみにですね、海外からも広く評価されているっていうのは、中日カナダ大使であったノーマンはですね、岩波新書だったと思うんですが「忘れられた思想家、安藤昌益のこと」という形で紹介されています。1950年に。
そういうことで、国内外にですね、安藤昌益を高く評価する、という方でありまして、まあ、それに対する論評、賛否両論ありますけれども、私自身は、同じ日本から、こういうような、立派な思想家が居たのだと確認し、改めて皆様と勉強したくしかもこの、敢えて<リニューアブル・エコノミー>と、いうことを打ち出されていた談論風爽で、ですね、皆様からも色々、ご教授いただいて、ということで。ちょっと「勉強」という意味で今日はご披露させていただきました。
もっときちっとした、本当に直前まで立派なもの(資料)ができていたのですけれども、申し訳ありません。後でその資料は、もう一度復元して、ご紹介したいと思います。
主旨としては、今、話ましたように、「安藤昌益という思想家」を、改めて見直すことによって、<日本発のリニューアブル・エコノミー>となるかどうか、それはわかりませんけれども、”発信する一助”としたいなあ、という風に思っております、
大変申し訳ありません、今日の纏めとさせていただきます。ありがとうございました。

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